
たまごっちを買った。息子がずっと欲しがっていた、あの「たまごっち」だ。自分が子どもの頃に流行っていた記憶はあるけれど、いつの話だったっけ、とふと考える。中学生くらいだったとして、ざっくり30年前。時代がぐるっと一周して、いま目の前で息子が同じものを欲しがっているのだから面白い。
最近は人気で売っていない、みたいな話も聞いた。転売がどうこうとか、限定モデルがどうこうとか。正直そのへんはよく分からない。とにかく「買えるのか、買えないのか」が気になっていた。でもちゃんと売っていた。店に並んでいるのを見た瞬間、こちらも内心ほっとしてしまった。息子が喜ぶのはもちろんだけれど、買ってあげられない状況になるのが嫌だったのかもしれない。
今日の息子は宿題を頑張って終わらせた。たまごっちが欲しいから、というのもあったと思う。いつもより手が早かった。終わったら、急いでアリオに買いに行った。息子には「お年玉を使って買うんだよ」と言った。欲しいものを自分の手で手に入れる感じも、きっと大事だと思ったからだ。店に着いて、無事に買えた。「売っててよかったね」と言うと、息子はうんうんとうなずいていた。
ただ、必死だったのは息子だけじゃなかった。むしろお母さんのほうが必死だった。30年ぶりのたまごっち。懐かしいとか、昔の気持ちが戻るとか、そういう話じゃない。普通に「かわいい」「気になる」「放っておけない」が来てしまう。母性って、こういうところで発動するものなのかもしれない。子どものためと言いながら、育てる側も一緒に楽しんでいる。息子と妻が並んで画面を覗き込んでいるのを見て、少しおかしくなった。
たまごっちはゲーム機というより、生き物に近い。やることが決まっているからこそ、放置できない。息子もゲーム機は初めてなので、最初にルールを作ってから始めた。時間はどれくらいにするか、いつ触っていいか、どこまでお世話するか。最初がゆるいと後で揉めるから、こういうときは最初に決めておくほうがいい。本人も納得した顔で、ちゃんとスタートできた。
買ったばかりのたまごっちを持って、そのままサイゼリヤへ行った。食事をしている間も、気になって仕方ない。そりゃそうだ。お世話しないといけないのだから。ごはんを食べながら、時々ポケットを確認する。鳴ったらどうしよう、今泣いていたらどうしよう。そんなことを考えてしまう。息子も同じで、目線が何度もそっちに行く。たぶん大人がスマホを気にしてしまうのと同じ構造だと思う。持っているだけで、意識が引っ張られてしまう。
家に帰ると、たまごっちは寝ていた。ああ、寝てるんだ、と安心する。でもしばらくすると、また起きた。起きたと思ったら、なんだか様子が変だ。何が不満なんだろう。空腹なのか、退屈なのか、構ってほしいのか。理由が分からないから、余計に気になる。小さな画面の中なのに、こっちの感情を動かす力がある。
ここで一度、お母さんにたまごっちを任せた。僕と息子はお風呂に入ることにした。たまごっちから離れるため、というより、ちゃんと生活の流れを守るためだ。ゲームがあると生活の優先順位が崩れやすい。だからこそ、意識して「まずお風呂」を選ぶ。息子も素直についてきた。湯船に浸かりながら、今日買ったたまごっちの話をする。こういう時間のほうが、実は記憶に残るのかもしれない。
お風呂を出ると、たまごっちがなんか進化していた。え、もう?と驚く。変わっている。成長している。なにっちだろう。名前もちゃんと覚えられていないのに、もう次の段階に行っている。息子も目を輝かせて覗き込む。妻も「ほら見て、変わったよ」とうれしそうだ。
たった一日で、家の空気が少し変わった気がする。たまごっちは小さい。音も小さい。画面も小さい。だけど、人を動かす力は強い。息子は何かを「育てる」側に立った。妻は30年ぶりに懐かしいものと再会して、母性のスイッチが入った。僕はそれを見ながら、家族の時間が少し増えたことを感じていた。
たまごっちひとつでこんなに騒がしいのも、きっと今だけだろう。飽きる日も来ると思う。でも、飽きるまでのあいだは、ちゃんと一緒に騒いでみようと思う。息子の「欲しい」が叶って、家の中に小さなイベントが生まれた。そのこと自体が、今日は十分にうれしい出来事だった。