父が亡くなった。
まだ、うまく言葉にできない。
何かを整理できたわけでもない。
気持ちに区切りがついたわけでもない。
ただ、忘れたくない場面がある。
今のうちに書いて残しておきたい。

最後までリモコンを持っていた
父の最後の時間の中で、はっきり覚えていることがある。
体を動かすこともしんどそうだった。
介護ベッドの角度を、細かく細かく調整していた。
少し起こして、少し戻して、また少し変える。
体の置き場を探しているようにも見えた。
楽な姿勢を探すだけでも、大変そうだった。
それでも父は、テレビのリモコンをいじり続けていた。
最後に、何か伝えたいことはないか。
そんな質問をすることができなかった。
あとから思えば、聞けばよかったと思う。
何か言いたいことがあったのかもしれない。
何か残したい言葉があったのかもしれない。
でも、そのときの父は、テレビのリモコンを手にしていた。
大きな言葉ではない。
特別な遺言でもない。
いつもの生活の延長にあるような動きだった。
それが、父らしい姿だったのかもしれない。
孫の好きなチャンネルを喜んでいた
父は、孫が好きなチャンネルを見ていいかと聞くと、うれしそうに「いいよ」と言っていた。
その顔を思い出す。
自分が見たい番組かどうかよりも、孫が見たいものを見ていることがうれしかったのだと思う。
孫がそばにいる。
好きなテレビを見ている。
同じ部屋で過ごしている。
それだけで、父にとっては幸せな時間だったのかもしれない。
だから、最後までリモコンをいじっていた姿は、ただテレビを操作していたのではない。
家族との時間をつないでいた手つきだったようにも思える。

息子の言葉は、きっと届いていた
息子も、父に向かって一生懸命話しかけていた。
まだ子どもだから、何をどう言えばいいのか、全部わかっていたわけではないと思う。
それでも、必死に言葉を重ねながら、おじいちゃんに話していた。
「聞こえてるよね」
「ぼくはここにいるよ」
「まだ話したいよ」
そんな気持ちが、息子の言葉の中にあったように感じた。
大人のように整った言葉ではなかったかもしれない。
でも、子どもの言葉には、まっすぐ届く力がある。
父にも、きっと届いていたと思う。
手紙を書くという、お別れの形
息子は、手紙を書くと言っていた。
その手紙を、棺に入れるのだと言っていた。
それもまた、息子なりのお別れの形なのだと思う。
うまく書けなくてもいい。
短くてもいい。
絵でもいい。
テレビ。
リモコン。
おじいちゃん。
孫。
それだけでも、十分に伝わる手紙になる。

話が終わったあとも祈っていた
昨日、その話をしていたときのことも忘れられない。
話が終わったあとも、息子はお祈りをしていた。
誰かに言われたからではない。
自分の中から出てきたように、祈っていた。
おじいちゃんに届いてほしい。
ありがとうを伝えたい。
まだそばにいてほしい。
きっと、そんな気持ちだったのだと思う。

最後はハイタッチだった
最後に別れるとき、父とはハイタッチをした。
そのときは、これが最後になるなんて思っていなかった。
また来る。
また会える。
そう思っていた。
だからこそ、あのハイタッチが今になって胸に残っている。
ちゃんとした別れの言葉ではなかったかもしれない。
でも、手と手が触れた。
そこには、確かに父との時間があった。
「また来るね」
そんな気持ちで別れたはずだった。
それが本当の最後になってしまった。
静かだけれど、あたたかいお別れだった
父に最後の質問をできなかったことは、これからも少し後悔として残るかもしれない。
でも、その場には、息子の言葉があった。
祈りがあった。
手紙を書こうとする気持ちがあった。
そして、父が孫のためにテレビのリモコンを持っていた記憶がある。
それは、静かだけれど、あたたかいお別れだったのだと思う。
父は、最後まで父だった。
孫に好きなチャンネルを見せてあげることを喜び、いつものようにリモコンを触り、家族の時間の中にいた。
大きな言葉はなかった。
でも、そこには確かに愛情があった。
この記憶を、僕は忘れたくない。
父が生きていたこと。
父が孫を大切に思っていたこと。
息子が、おじいちゃんに向かって一生懸命言葉を重ねていたこと。
そして、話が終わったあとも祈っていたこと。
それらを、ここに残しておきたい。
お父さん、ありがとう。
最後まで、お父さんらしかったよ。
孫の声も、祈りも、きっと届いていたと思う。
僕たちは、その時間を忘れません。