目玉焼きにソースをかけても、ぜんぜん邪道ではない。なのに、わが家では少しだけ禁じられている。
私は目玉焼きにソースをかけたい派だ。
黄身のまろやかさに、ソースの酸味と甘みが入る。白身の焼けた端にもよく合う。ごはんも進む。かなり完成された食べ方だと思っている。
しかし、妻は醤油しか許さない。
妻の前では醤油、ひとりの朝はソース
なぜ醤油でなければならないのか。聞いても、明快な理論が返ってくるわけではない。
たぶん「目玉焼きには醤油」が、妻の中では味つけではなく常識なのだ。
育った家の食卓にずっとあった組み合わせは強い。理由より先に「そういうもの」がある。
だから私は、ひとりで食べる朝だけソースをかける。
少し多めにかける。誰にも注意されない。うまい。
自由とは、こういう小さなところにあるのかもしれない。
目玉焼きのソース派は、どこから来たのか
「目玉焼きにソース」という食べ方の発祥地は、調べてもはっきりしない。
醤油は日本で長く使われてきた調味料だ。一方、ウスターソースが日本へ入ったのは明治初期。洋食が広がるにつれて、国内でも親しまれるようになった。
つまり、目玉焼きに醤油は和食の流れ。ソースは洋食の流れ。そんなふうに家庭へ入ってきた可能性はある。ただし、これは食文化の歴史から考えた推測で、「最初に目玉焼きへソースをかけた人」はわからない。
発祥は不明でも、おいしさには理由がある。ソースには酸味、甘み、香辛料の香りがある。卵のまろやかさに輪郭がつく。合わないはずがない。
でも広島風お好み焼きは食べるじゃん
ここで私は、どうしても言いたくなる。
妻よ。広島風お好み焼きは食べるじゃん。
卵とソースは、そこで堂々と共演している。しかも、かなり仲がいい。
お好み焼きの卵にはソースを許すのに、目玉焼きになった瞬間に禁止する。その境界線はいったいどこにあるのか。
料理名が変われば、ルールも変わるらしい。食の常識は、思ったより論理ではできていない。
邪道ではなく、家庭ごとの方言なのだ
醤油、ソース、塩、こしょう、ケチャップ。目玉焼きは、何をかけても受け止めてくれる。
それなのに、自分が慣れた味だけを「普通」と思ってしまう。これは正解と間違いではない。家庭ごとの方言みたいなものだ。
妻の醤油も正しい。私のソースも正しい。
ただし、わが家の食卓では醤油の発言力が強い。
だから今日も、ひとりの朝を待つ。フライパンで卵を焼き、皿へ移し、茶色いソースをくるりとかける。
やっぱりソース、おいしいのになあ。












